ニュージーランドの旅によせて


by kazekirari
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トイレ 考

 海外旅行をして、「アレッ!」と戸惑うことはトイレである。 ニュージーランドの旅でも、同じ思いを持った。  ニュージーランドの日本でいえば「道の駅」に設置してあるトイレは、どこも極めて掃除が行き届いており、清潔度満点である。しかも「ただ今、清掃中」という日本でよく見かける立て札には一度も遭遇しなかった。幸せなことである。一体、どの時間に掃除をしているのだろうと不思議に思えたのである。「トイレ掃除は、地域のボランティアが当たる」とも耳にしたが、はてさて、・・・。
 さて、「アレッ!」について、述べていこう。
 ニュージーランドの便座に座る。「シャッコイ!」覚悟して座っても、便座の冷たさは、用をたす度に味わうことになった。この「シャッコイ体験」は、私に関していえば、かなり、以前の過去体験になる。札幌にいて、今や、便座はポカポカ温かく迎え入れてくれる所が大半になっている。
すっきり後である。ニュージーランドのトイレは、温湯は出てこない。当然、ボタンもない。
用をたした後に患部を温湯で清潔にする生活習慣は、当たり前のことになっており、旅の中では、濡れティッシュを併用し、清潔度を保った。
 帰国後、友人にこのことを話したら、「ニュージーランドからの留学生が、日本のウオシュレットにゾッコンになり、研究テーマではないが、論文を書いてしまった」というホントのようなウソのような話をしてくれた。
 そういえば、東南アジアからの旅行者が、秋葉原で求めるお土産NO.1は「ウオシュレットトイレ」とも聞いたことがある。 トイレ環境は、日本が世界一!と自慢したいと思った。

 そこで、思い出したことがある。私の社会人デビューは、市街地から6キロ離れた僻地1級の小学校だった。私に与えられた住環境は、3戸集合住宅で家族持ちが1軒、独身の男性が2人で1戸に、それに、私が入居していた。隣の住人の咳まで聞こえたのだから、どんな作りになっていたのだろう。プライバシーなどという用語もなかった時代である。トイレは、共同で外にあった。長い2枚の板が置いてあり、排泄物は、容易に手が届く位置にたまっていた。夏には、ハエがブンブン唸って、落ち着いて用を足せなかったものである。住宅裏の畑の向こう端に「肥え溜」があり、月1度の割で「くみとり作業」をした。飲み水も外にポンプがあった。風呂は、校長の家に週一度、土曜に貰い風呂した。水汲みが重労働だった。コンコンと湧く湧水を両手バケツで50回往復した。貰い風呂の夜は、校長の家で、独身の3人は、奥さん手作りの夕飯をご馳走になり、夜遅くまでおしゃべりを楽しんだものである。昭和37年の頃である。その当時、お世話になった校長夫妻は、すでに、亡くなっているし、職場もこの3月に閉校になってしまった。

 生活は、とても便利になった。ウオシュレットトイレが当たり前になり、旅先でその環境が整っていないと文句を言いたくなる自分を反省しなければならない。20代のはじめ、外の共同トイレは、とても、抵抗があり、夜は
怖くて行けなかったので、夕方にきちんとすませ、水分を取らないようにし、朝早く、出勤したものである。
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# by kazekirari | 2009-05-02 14:50
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幸せなことに、私は、今、人生の後半を定年を迎える頃に想像した生活環境をはるかに超えた安らかで、充実した思いの日々を過ごしている。定年退職後に、新しい友人が出来ることなど、ほとんど、期待していなかったことである。しかし「固有名詞」で出会った人々と実に、いい関係で結ばれ、退屈することはない。更に「役割」を与えれることも多い。必要とされるポジションで、私なりのペースでの思考行動が可能である。すべて、ボランティアだから、無理強いされることはなく「出来るときに、出来ることを 誰かと自分のために・・」ポリシーが侵されることはない。
 「パソコンを教えてもらいたい」目的で入会したNPO法人札幌シニアネットの存在は、私の生活にとって、極めて重要な位置を占めている。

 ニュージーランドの旅も、札幌シニアネット(SSNという)主催の海外旅行である。
とびっきり、この旅が、ラッキーであったことは、北海道の厳冬期の4か月を永住権を有するニュージーランドで暮らすリッチな環境をお持ちのJ氏が企画・立案し、かの地の友人知己との関係をフル活用し、実行して頂いたことにある。13日間のスケジュールは、「あそこで、あの事を、体験してもらう」J氏の愛に満ちた企画に支えられた旅であったのである。現役時代を多くの国での勤務を過ごされたJ氏は、持前の汲みきれない瑞々しく、思慮深い資質の上に、厳しい環境下で磨かれたバランス感覚を身につけた素晴らしい方である。有言実行、集団組織の意識の的確な把握、決断の速さ、人間味のある温かさ、挙げていくと、素晴らしい人物像が人なっつこい笑顔と一緒に浮かんでくる。私には、到底、たどり着けないことばかりであるが、この「人生の師匠」と呼びたい友人がJ氏以外にも、幾人もおり、私の精神生活を支えてくれている。有難いことである。
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 人生における「出会い」の大切は、古今東西、語り継がれていることである。「出会い」のチャンスを見逃さない自身の資質が大きく求められる条件でもある。「人生の素敵」に接しても、気づかない愚鈍な自分でいないために、自分磨きを欠かしてはいけない。

 溌剌と生きている人から元気をもらう。その行動は、見ていて気持ちがいい。SSNの素敵で多様な人材から、私自身の生き方を学び、豊かなシニアライフを楽しみ、ゆっくり歩いて行きたいと願っている。
 父と4人の親しい友人をあの世に送り、沈んだ気持ちを抱え、鬱々過ごしていた2008年の終わりに、、ニュージーランドに遊んだ旅は、人生の大きな収穫になった。
その中のバンジージャンプ体験は、私が私であり続けるための貴重な行動であった。行動を経て、気づいたことをこれからの生活に活かしていくことを誓いたい。
 ニュージーランドの広大な自然の中で、一瞬だが、私は、鳥になり、風になった。思い切りのよい、凛々しい行動だったと自身に告げてやりたい。かつてマラソンランナー高橋は、金メダルを高く掲げ、「自分を褒めてやりたい」と名言を残した。それとは、少々、意味合いが違うが、日常から離れ、ニュージーランドの文化が育んできたバンジージャンプ挑戦は、私自身が決意し起こしたかけがえのない事実である。行動を支えてくれた全ての環境に心から感謝している。チャンスを的確にキャッチする人生を求めたい。
 30代の前半に私は「独り」で生きる生活を選択したが、今、多くの友との絆に支えられて暮らせる前期高齢者人生に「ブラボー」と叫んでおこう!

 私たち旅友18人は、今月末、SSN企画フォーラムにおいて”感動!ニュージーランドの旅”を映像と画像を提示し、語る。その仲間の一人であることは、至福の喜びでもある。
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# by kazekirari | 2009-04-06 11:52
a0118286_15315214.jpg 「あれ? ちょっと 違った?」 例えて言うと、タンスの上に物を載せ踏み台から「ポン」と降りるような飛び方だった。
 「これ 違う!」と、心を過ったがすでに遅し!であった。 天気がよかったら、湖はもっときれいだったろうなどと、考えていた私のバンジージャンプであった。しかし、M子さんが撮ってくださった連写2枚目のフォームは、我ながら惚れぼれする勇ましさである。旅友の何人もの仲間が、限られた場所から、数多くシャッターを押してくれていた。M子さんのこの画像は、私の今後に落ち込むことが起こった時、解決のための力を与えてくれる財産になると胸が熱くなる。
 夕食は、中国人経営の中華料理だった。「おめでとう!よくやった」との温かい励ましを貰ったが、有難いことに大騒ぎの祝賀会にはならなかった。
 K氏が「よく 飛びましたね」と、しみじみ語りかけてくれ、私は「どうして Kさんは飛ばなかったんですか」少し、抗議めいた口調で言ったように思う。K氏は「やろうと思ってたんですがネ・・」聞けば、この方は自衛隊OBで、陸空海での実戦さながらの特別強硬訓練を職業として、数多く重ねて来た方だった。

 「ポンと「飛んだんですよね。アレッ、ちょっと、違ったと、思ったんです」「初めての人は、あの飛び方をしますよ」このK氏の言葉がヒントになった。その時、K氏は、それ以上のことを口にしなかったのである。
 深夜、ベットに入って「アッ!オリンピックの飛び込み台!」と思った。獲物に狙いを定めて、まっしぐらに飛ぶ鳥と考えればよいのだろう。バンジージャンプは、平和な(そんな環境は鳥には与えられていないだろう。いつだって、動物や鳥や魚たちは、命がけで生きている)両羽根をパタパタ羽ばたかせる飛行ではないのである。私のバンジージャンプをJ団長は「まるで獲物に向かって急降下するカワセミにように見えた」と、ライブメールで報告してくれている。
かつて、探鳥会会員として、早朝のウトナイ湖やポロト湖で遊んだ私は、憧れのカワセミに例えられ、有頂天になりそうだった。

 かの地でのバンジージャンプは、遊びとして人気があるらしい。バック転で飛んだり、恋人同士が抱き合って飛んだり、その日も、私の次のジャンパーは、二人連れだった。
 ネット情報によると「ヌードジャンパー 無料」にワンさと集まったのは、男性達で、女性の申し込みはなかったそうである。「次は それを期待します」とI氏までが、言葉遊びをした。「公害なるから、やらないわよ」と、笑いながら、私はそんな自分を「いい感じ」と、思った。
 バンジージャンプの発祥そもそもは、男子の成人を祝う儀式だったそうだ。木の蔓を持って、飛び、勇気ある男子の大人への登竜門とでも呼べばよいのだろうか。

 K子さんのスタート台のフォームは、体の中で、もっとも、重い頭を下にし、両手を両耳の傍で広げている。
47m上空から、このフォームを取れる新人はいないそうだ。K子さんは、息子さんや娘さん家族が帰省し、賑やかで楽しいお正月を過ごしたそうで、お孫さんに「グランマ すごい!」と言われたことが嬉しかったと言っていた。ご主人は「ホントに・・・」と言ったきりだったとか・・。それでも、おばあちゃまの海外旅行での雄姿をファミリーみんなで、楽しんだ素敵な家族に乾杯である。

 私たちは、バンジージャンプの後、夕食を摂り、”ポリネシアン・スパ”に行った。出発前、水着必携が告げられていた。中華料理で満腹のお腹は、元々あるメタボ腹と合わせて、酷い水着姿になっており、とても、胸張って、入浴とはいかない。私は、大急ぎで湯にしゃがみ込み、後は、じっと 動きを止めて潜っていた。そのスパは、40度くらいの湯温で、冷え切った体を芯まで温めてくれた。36度の湯船に移動した多くの仲間は、話に花が咲き、札幌にも出来た男女一緒の水着スパに行く話にまで発展したそうだ。(それまでに、水着姿の改善を図らねばならないナ。)天気がよければ綺麗な夕日が時間を忘れさせるとのことだった。
 ニュージーランドには、多くの温泉が湧き出ていて、水着を着て男女一緒に楽しむのだそうだ。また、日本人と同じに、温泉で傷を治す意識も持っており、保養などに利用しているそうだ。
 この次のチャンスでは、私もみんなの輪の中の一員でありたい。

 旅の終わりのオークランドの砂浜で、私たちは遊んだ。J団長が「ご褒美だよ。バンジージャンプのの表彰式をするよ」砂浜で拾った貝殻をたくさんくれた。
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# by kazekirari | 2009-04-02 15:29
 師走下旬の夜だった。徳島に住む弟から電話があった。
「ニュージーランドに行ったんだって」「うん」「よかったね。オークランドよかった?あの街に興味あるんだ」「うん、大都会だったけど、落ち着いて、品のある素敵な街だった。パートナーがいたら、住みたいと思った。」「へえ、そう!何よりだね。」「あなたたちと住むってのもいいなって思うよ。実現遠くって感じだけどね。外国に住むことなんか一度も頭を過ったことないけどネ、永住権取ってるこの旅をアレンジしてくれた団長の生活スタイルは、魅力的だと思った。」「なるほど。よかったねえ」「あのネ、バンジージャンプ やったの」「オー! それは凄いねえ!だけど、危険だよね」「うん。賛否両論!の声を貰ってる。日本で考えるバンジージャンプと現地の概念は大分違うんだけどね。」「そうだろうね。でも、凄いことやったね」「ウン アリガト!行く前から、バンジージャンプを旅の楽しみ体験に入れといたんだけどネ。飛ぼうと決める力が私に残ってたことを確認出来て救われた。お父さんをみおくってから、私、ひどかったからね。」「そうか。それはいいや。ジャンプの様子見たいね」「仲間がね、静止画と動画で撮ってくれててね、それを見て これは夢の世界だって思うよ。信じられないくらいの枚数を私も撮ったんだけど、自分では決して撮れない私を撮って貰って、旅は、終わってからの方が味わいがあるのよ。それとね、一緒に旅した人たちとの出会いもこれからの貴重な財産になると思うよ。バンジーイコール私と結びつかなかった人が圧倒的に多くてね、面白かった。あなたをすごく近くに感じたと言ってくれた人が何人かいたの。これは、涙もんよ。私、今だに、硬いイメージ強いんだね。」 
 この夜の弟との電話は、珍しく長話になった。

 a0118286_17193394.jpg2008年5月、私たち家族は、父を見送った。97歳、市井の片隅で地味に生きた父だった。’07年12月に肺炎で緊急入院し5か月後の夜、弟夫婦に見送られ静かに目を閉じた。最後まで意識は鮮明で、私たち家族は「人生を生き切った父」を五月晴れの空に静かに見送った。アルツハイマー型認知症が進行する母は、立派に喪主を務めた。その姿は、今、思い出しても、実に見事だった。先日「お父さんの1周忌の法事」の話をしたところ「あら、お父さん死んだの?」と、不思議そうな顔で言った。
 5月のゴールデンウイーク 父の墓前に、88歳の母を真中に、きょうだい4人と連れ合い、甥姪が集う。
※画像は95歳の父・喜三。シナリオ作家・TVディレクターを職業とする甥は、入籍したパートナーとおじいちゃんを訪ねてきた。マスコミ業界の裏話を父は興味深そうに、あれこれと尋ねていた。

 父の死後、7日ごとのおつとめ、49日とお盆の法要、100日祭まで、私は元気だったと思う。
 高速道路1時間をとばし、A町の実家行きが苦になることはなかった。現職時代から心を込めた介護の一端は「今、出来ることに心を込めて」と考え数年を実家に走った。定年退職後は、両親と同居をしてくれた弟夫婦の少しでも役に立てばと思い、私は、両親と“遊ぶ”ためと通院補助のために帰省を繰り返した。
絵本を読み合い、詩吟を一緒に吟じ、唱歌を歌い、散歩をしたり、畑の手伝いをして楽しんだ。

 100日祭を終えた夏の朝、突然、ベットから立ち上がれなくなった。秋、大きなイベントもあったNPO法人の活動と遠隔地への出張もあった大学の非常勤講師役は、何とか穴を開けずに努めたはずだが、所在ない自分の日々にすすり泣く日を過ごした。「重症なトンネル入り」を自覚し、当分、流れに身を委ねて過ごそうと思ったが、自己嫌悪と孤独の感情をどう処理しようか、思案する日々だった。気分が滅入った時に通院し、体を楽にしてもらうOメンタルクリニックのブロック注射もその時は効果がなかった。だが、ボランティアの多くの仲間の存在が救いになった。若い学生たちが元気をくれた。しかし、肝心の実家行きが実行できなくなり、弟夫婦との間に不本意な溝が生まれてしまったのである。

 そんな言ってみれば、私の人生何度目かのピンチ状態真っ最中のニュージーランド旅行だった。日常から非日常の環境に身を置き、自然体に戻りたいと心から願った。スケールの大きい自然や人々の暮らしぶりが、新鮮に心に染み、食事時のワインをゆったり味わい楽しむことが出来た。この旅で、私は、名誉ある「飲んべえ仲間」の席を確保?した。同室のR子さんに「現職時代の話や離婚、恋人とのあれこれ」を語っている自分に気づいたのは、旅の幾つ目の夜であったか。
 私は、子供の時代から今に至っても、あまり、自分を語りたがらないタイプの人間である。

 
a0118286_3163087.jpg再び、バンジージャンプをすることはないだろうが、「バンジーはネ・・・」と、幾つかの伝えたい思いがある。誰にでも「おやりなさい」と、勧められる事ではないが「楽しい遊び」であることと事後、私が、整理した心得だけは伝えたい。 
画像は、ナデシコジャンパー1番 K子さんのスタート姿勢。明らかに、私の姿勢とは大きく違っている。K子さんの姿勢が、人間の体の原理・原則に適った姿勢である。このスタートポーズは、お見事で何度見ても、惚れぼれする。体育会系の肝っ玉が座ったチャーミングで明るいK子さんは、酒の飲みっぷりもイカスのである。
 バンジージャンプ その 1に「あれ!ちょっと 違った」と書いた内容は、次回に書くことにしたい。
 
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# by kazekirari | 2009-03-30 15:01
 その日は、2008年12月9日、ニュージーランド北島。少々、雨に煙るタウポ湖のミントブルーの水面が素敵だった。
a0118286_1475128.jpg 「ワッ!高い!」47mの飛び込み台に立った時、一瞬、身がすくみ、たじろいだ。
スタートの「3・2・1 バンジー」担当女性の声に呼吸が合わなかった。「自分でします」振り向きながら、私は声を発した。昨夕からのイメージトレーニングに沿って、深く息を吐いて、吸い、両手を大きく振り上げ、「ポン!」と、飛んだ。
 「アレッ!ちょっと、違った」と、思った。
 急降下し、1回目の大きなバウンドを感じた。この衝撃は、本当に大きかった。すごかった。頭がクラっとした。次の降下の時「アリャーッ!まずい!」今度は、下着が全て、首方向に向かって捲れてきた。腹部は、スースーと風通しが良くなった。「ブラジャーよ、ズレないでくれ!」祈った。しかし、気分は良かった。多分、3度目の降下の時「よ~し!」声をあげたと思う。

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昨夜来のイメージトレーニング通り、両手を掲げ、目を開け、湖の色と救助ボートとまさかの時の救命ボート5隻の確認もしていた。今にしても(どうして?)と、半信半疑で自己問答をするが(お日さまが照ってたら、水はもっと、綺麗だろうな)とも、思っていたのである。
 わが人生、一世一代の大冒険バンジージャンプは、かくして、タウポ湖に向かっての高速降下体験だった。
 着船の際、右手で救助ポールを持ったが、失敗!体重を支えるためには、両手の力が必要だった。大きく体は横に揺られ、再度、挙げられたポールを、今度は、両手でしっかり握った。一気に、強い力で船上に引かれ、着船出来た。合計大小3回の上下動を経験し、私は、待機の救助ボートの船上に転がった。嬉しかった。遠くに浮かぶまさかの救命ボートが小さく見えた。
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 先に終わったK子さんが、両手を高く挙げて見守っているオレンジ色のヤッケ姿が見えた。私も手を振った。
船頭が笑顔で何か言った。「サンキュー!」私は、老船頭と握手をして船を降りた。階段を駆け登り、K子さんとしっかり抱き合った。ジワーッと込み上げるものがあった。私たちは、手を握って 長い長い階段を一足一足踏みしめながら山の上を目指した。
 「オーッ!よくやった!」笑顔のJ団長が迎えてくれた。T子さんとR子さんの姿が目に入った。
ビデオには「私、ずっと、目を開けてたの」と、言っている私が映されていた。T子さんが「おめでとう!」涙目でくれた温かいカフェオレの美味しかったこと。「ありがとう!」後は、言葉にならなかった。昨日から「ホントにやるの?」と言っては、涙ぐんでくれたT子さんだった。受付まで強引についてきて、出発前の陽気な私たちを撮り続けてくれたR子さんの友情があった。
「飛びたい」意思を告げてから過ごしたたった一日だったが、とても長く感じた時間の様々を思った。

 気持ちが静かになってから、気づいたことがあった。迂闊だとも、軽率だったかもしれないとも、自省する思いだった。 この冒険をかたずを飲んで、私たちの無事を祈り見守ってくれていた仲間たちがいたことを知った。感謝した。飛びたい思いを認めて貰ったこと、心配かけたこと等々、バスの移動中、行動前には思いつかなかった想いが去来し、私は、じっと俯いているしか出来なかった。
 後で、考えたことである。「人は人の中で、人に支えられて生きている。だから、自分のやりたい思いだけで、行動を起こしてはいけない」肝に銘じたことである。当たり前のことで、私の日常で、いつも、行動に際して自制していることであったはずだが、旅前の「バンジーが出来る!ニュージーランド」への期待が、そんな日常を忘れさせたのかもしれない。こういう自分も、私自身だと思った。
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# by kazekirari | 2009-03-15 13:52